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行動に移せないのは意思が弱いから?? 前編

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「どうしてそんなに行動できるの?」

つい最近友達に聞かれたこの言葉がずっと頭の中に残っていました。

 

 

大事そうだとは思うけど

最近やたらとテレビや本や雑誌、インターネットでは

「行動力が大事だよ!!」

とよくささやかれている気がします。

 

...とはいうものの、

「でもやっぱり...」

と、どうしても行動に移せないというのが本音だと思います。

 

どうして尻込みしてしまうんでしょうか?

モチベーションがわかないからやらない

「これやればいいのはわかってるんだけど面倒臭いんだよなー」

というケース。

これについての処方箋はこちらの記事にまとめました。

 

imicro.hatenablog.jp

怖くてできない

「お金儲けをしたい!でもそれで皆から嫌なやつと思われたらどうしよう...」

「あの子と仲良くなりたい!でもキモイと思われたらどうしよう...」

etc

 

どちらも未来に起こるかもしれない事に不安や恐怖を感じているんですね。

今回はこのケースの処方箋について書いていこうと思います。

「恐怖」

先の例で僕が言いたかったこととは、

僕らは何かを行動に移そうとすると、どこかに恐怖を感じてしまい、どこかでその行動をためらってしまうことがあるということです。

 

もっと具体的な例を挙げてみましょう

新年度が始まって、部屋の整理などをした人も多いと思うのですが、モノを捨てるときって躊躇しません?思い出の品であったりすると特にそうなのですが、最近ほとんど使っていないものを捨てるときまで躊躇してしまうことがよくあります。

これって、使わないものを捨てるときに

「もしかしたらこの先使うことがあって、その時困るかもしれない」

「もしかしたら売れるのに、捨ててしまったら損してしまうかもしれない」

という「恐怖」を感じてしまっているというのが理由に挙げられますよね。

 

このように何かしらの恐怖が僕らの行動をブロックしているということが少なくありません。

 

では、そもそも僕らが感じる「恐怖」って一体どのようなものなんでしょう。

 

偽りの恐怖

僕ら(ホモサピエンス)は、サルと共通の祖先から進化をたどってきたのですが、誕生したのは20-180万年前だといわれています(wikipediaより)

僕らの身体はそういった長い歴史を経て受け継がれてきているのですが、大昔、原始時代の先祖たちはどういったものに恐怖を感じていたのでしょう。

 

まず僕らのように安全が保障されていません。重火器のようなものなんてありませんから、野生生物に襲われたらひとたまりもありません。

それに食料も保障されていません。現在の日本だとお腹がすいたら近くのコンビニや外食店に入ればいいのですが、原始時代にコンビニはありません。食料の無いところに移ったものなら餓死してしまう恐れがあります。

つまり、原始時代の先祖の抱いていた恐怖というのは、生死に直結する問題であった、ということになります。

 

しかし、現代ではどうでしょうか?

時々ニュースなどで熊に襲われたというような話も聞きますが、普段の生活でめったに野生生物に襲われたり、また何かによって命の危険にさらされることはありません。

食べ物も幸い日本をはじめとする先進国では食料に恵まれているため、昔に比べて餓死してしまう人は格段に減っています。

ここ数千年で、僕らを取り巻く環境というのはがらっと変わったんです。

この環境で僕らが感じる恐怖というのは、原始時代の先祖が感じていた恐怖とはまるっきり違っているんです。

 

しかし、生き物としてはそうすぐには変化できません。いきなりどこからともなくプログラマーがあらわれて

「現代の環境に合わないので、人間を大型アップデートします!!」

なんてことはありません。せいぜい小さく修正が加わった程度でしょう。

 

つまり、昔の恐怖とはまったく性質が異なっているのに、身体は昔ながらの方法で恐怖に対処してしまっているんです。

 

恐怖=過保護な親

僕らの感じる恐怖というのは、生死を分けるような原始時代の時のものに比べてレベルが小さいのに、それに対して身体は異常に反応してしまう、ということをお話ししました。

 

想像していた恐怖に比べて、実際起こったことにとても差があった経験はありませんか?

 

高校時代の話をします。

その日は朝から焦っていました。部活の朝練に向かおうと、いつものように自転車に乗ろうとしたとき、いつもとはやけに様子がおかしいのです。「あれ?」と思いつつ乗ってみると...ふにゃ。

完全にパンクしていました。当時の僕は自宅→自転車→電車→自転車→学校というように通っていたのですが、自転車で駅につく時間を計算していたので、これは大誤算。駅までは結構あるので歩いていくと、余裕を持たせておいた電車にも乗れません。つまりこの時点で遅刻確定。

コーチはとても厳しい人だったのでこの時点で「終わった...」と思いました。電車の中でずっと「どうしよう...怒られるの嫌だな...行きたくないな...」とか考えながら学校に向かいました。

プールに入ったとき、案の定練習は始まっていて、しかもそこそこ時間が経っているという状況、「腹くくるしかないな」と思った矢先コーチと目が合いました。

瞬時に身構えたのですが、コーチはニコっとして「はよ着替えて来いよー」というだけで、一気に肩の荷がおりたのをよく覚えています。

 

僕らには先のことを実際のこと以上に不安に思ってしまう性質があって、それに対して以上に心配してしまう。まさに恐怖=過保護な親なわけです。(先行きが不透明といわれる今のなかで、過保護な親が増えているのもうなずけます)

 

では、どうやってこの過保護な'恐怖'に対処していけばいいでしょうか。

 後編へと続きます。